生きづらさを手放すために

自分肯定と自己否定

「自分なんて」「どうせ自分には」「やっぱり無理だよね」
または
「さすが自分!」「自分最高!」
どちらの言葉がしっくりくるでしょうか?

自分を褒めて肯定することが日常的に出来れば、些細な問題やいざこざを、ずっと抱え込まなくてもやり過ごすことが出来ます。
しかし、自己否定感が強いと、些細な問題やいざこざがある度に、自分に対してネガティブなメッセージを送り続け、そのマイナスのメッセージは心の中にため込まれて堆積していきます。
生きずらさの元には、このような思考の習慣があります。

自己啓発セミナーに参加したり、本を読んだり、浄化を謳ったスピリチュアル系といわれるセッションを受けてみても、その時には前向きになり、マインドをリセットできた気持ちになるのの、時間が経つと、いつもの思考パターンに戻ってしまう・・・
このような経験はどなたにも起こりうるものと感じます。

自己否定感の育つ背景

三つ子の魂百まで、と言われるように、育った環境、養育者との愛情の絆(愛着)、による、影響は大人になっても続きます。
そして、育った環境以外にも、日本の文化や習慣においても、自己否定の感情が違和感なく溶け込んでいるケースがあると感じます。
日本語には、尊敬語、謙譲語、丁寧語という表現方法があります。
外国語において丁寧な言葉、表現はあっても、へりくだって表現する謙譲語はあまり聞いたことがありません。
心を込めて選んだ手土産を「つまらないものですが」と先様のお渡しすることも我々の親の世代では普通に見られた光景です。
このように、私たちは、自分を下げてものを言うこと、自分を下げて表現することに、抵抗のない習慣が文化的に存在することも、自分を肯定にしくい要因ではないか、と考えます。

自己否定感の罠

自分の価値を低く扱うことに慣れてしまうと、それが当然になっていきます。
違和感もなくなります。
周囲からも、あの人にはこのくらいの扱いでも大丈夫、という低い基準で扱われることになります。
友人関係であっても感情的に対等ではなくなります。
一体どのようなことが起きるのでしょうか?
まずは、相手の愚痴話ばかりを聞く、聞き役に徹しなければなりません。
自分の選択よりも相手の都合に合わせることが普通になっていきます。
時間、お金、感情、すべての境界線が侵入されます。
愚痴話を普通に受け入れることは、感情のごみ箱役のようなものです。
習慣になれば、愚痴を言う側はいつでも、自分のことを聞いてくれるのが当然、となっていきます。
やがては自分の考えに自信が持てなくなり、周囲の考えや価値観に振り回され自分を見失っていきます。

自分を見失った先で出会うもの

Birds of a feather flock together という言葉があります。
「同じ羽を持つ鳥は群れる」という意味です。
同じ考え方を持つ者同士が引き寄せられ、共鳴しあいます。安心します。
しかし、根本的には、自分を否定している者同士のつながりでもあります。
互いの存在は合わせ鏡のようなもので、共鳴しながらも、その関係の中でも不全感があります。
思うようにいかないと、相手への不満は怒りになり、関係が破綻します。
自己否定感を消し去ることはなかなか出来ません。

その原因は、自分の中にある満たされない空白の部分を、人に埋めて貰おうとする期待にあります。
期待外れとなれば当然悲しくもなり、その悲しみが怒りになります。
この時の心の中では、「自分は被害者である」という気持ちにさえなります。

しかし、本当に被害者なのでしょうか?

作られた被害者の心の内側にあるものは

私はこんなふうに裏切られました。
あんなに良くしてあげたのに、あの人は私にちっとも良くしてくれない。
相手への期待が大きいほど、自分の心の空洞が思うように埋まらないと、怒りになります。
そもそも、自分の心のオーナーは自分です。
他者で埋めようとするところに無理があります。
親子であれ、夫婦であれ、恋人、友人、自分以外の他者に期待をし過ぎること、

その人無では自分が保てないのであれば、それは依存です。
そして、依存は執着を生みます。
執着を生み出した本人のマインドは「被害者」として振舞います。
いかに自分に関心を持ってもらえるか?時には大げさな表現で同情を買ったり、嘘をついてまでも、自分に関心を持ってもらえるように振舞うこともあるでしょう。
この状態で、自分で自分を幸せにすることが出来るでしょうか?

自分を幸せにするために必要なこと

他者に依存をし、他者に頼ってばかりいては、健康的な繋がりから自分を遠ざけてしまいます。
誰かに私を幸せにしてもらいたい
という思考を変えていく必要があります。

自分を幸せにできるのはあの人だ!
という思考を
自分を幸せにできるのは自分だ!
に変える必要があります。

自分に喜びを与えてくれるのはあの人だ!
という思考を
自分を喜ばせることが出来るのは自分だ!

この思考が身についてくると他者への期待はそれほど大事なものではないことに気づきます。
自分が評価をされようがされまいが、自分が選んで、楽しんでいることが正解である、と自分の中から正解を見出すことが出来るようになります。

そして自分が選んだもの、生き方、考え方、の結果を人のせいにすることなく、引き受けることが出来るようになります。

誰かに依存をすることなく、誰かに責任転嫁することもなく、人と比べて落ち込むこともなくなります。

このような生き方が習慣化になると、再びBirds of a feather flock together (同じ羽の色を持つ鳥は群れる)のように、自立したマインドを持つ者同士の繋がりを持つことが出来ます。

移行期間には、今までの自分にとって卒業するご縁もあるので、一時的に孤独を感じるケースも多いです。
しかし、この孤独は孤立とは違います。
一人で居ること自体にも不安も抵抗もなく、周囲と自分を比べることも、必要がなくなります。

生きづらさからの解消はこのような経過をたどって、自立し、自分を肯定できるようになるものと私は考えます。
そしてこの作業を通して、私の心に共鳴する一篇の祈りを最後にご紹介しましょう。

~ゲシュタルトの祈り~

「私は私のために生き、

あなたはあなたのために生きる。

私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。

出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。」

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