アダルトチャイルドが自由になるまで

はじめに

リコラの場合

年齢を重ね、さまざまな人生経験を積んできたにもかかわらず、子どもの頃から変わらない考え方、クセ、心の在り様が私にはあります。

それは、「成長していない」ということではなく、わたくしの心の底に張り付いたブラックボックスのような、大切な何かを記憶し、保管しているものが、どっしりと根付いている感覚です。

普段は影響のないブラックボックスの中身が、事が起きおるとザワザワと動き出し、大人になった私を揺さぶります。

無力で、はかない子どもの頃の自分に巻き戻されるような、逆らうことの出来ない非常に強い力で引っ張りこまれます。

このように、過去の経験や記憶に翻弄されて生きている人たちのことを「アダルトチルドレン」「アダルトチャイルド」と呼びます。

アダルトチャイルドとは

依存症者とその家族の治療や回復の現場で生まれた言葉です。子ども時代に、安心安全と感じることのできない背景の中で、今、感じている生きづらさが、幼少期の養育環境や親子関係にあったことを自分で認めた人のことを言います。

アダルトチャイルドの誕生

植え付けられた信念

子ども時代は自分で自分の人生を選ぶことが出来ません。昨今「親ガチャ」という言葉が流行りました。親を自分で選べない、という意味です。

そういった意味で人生は親次第であり、親の価値観が子どもの人格を形成するうえで、大きな影響を与えます。親が自分の人生と子どもの人生を違うものとして考え、子どもの主体性を重んじる方針であるならば、子どもには選択の余地が残されます。

一度の人生を後悔しないように生きるために、物事を自分で選ぶ力は非常に大切な能力となります。自分で選んだものがもたらす結果は、その良し悪し以上に経過を経験して学びます。

自分の選んだものに対してその結果を受け入れ、責任をもつことが出来ます。思い通りの結果を得られなくても、自分が選んだことだから、自分の責任であることを学び身に着けていきます。

しかし、親が、自分の成功体験や価値観だけが人生における正解だと思い込んいると、こどもはどんなふうに育つのでしょうか?

もはや何事においても選択の余地などありません。自分で選ぶ経験を知らなければ、学びも失敗もわからないまま、やがて自分を見失い「自信のない」状態が当たり前となっていきます。

そして、思い通りの結果が得られないと、人のせい、まわりのせいにして、いつまでも困難を乗り切ることが出来ません。こじらせた自分をなんとかしたい思いに駆られて、自信のない子どもだった大人は、やがて自分探しの旅に出かけます。

愛と支配はコインの裏表

わたくしは、選択の余地のない子ども時代を送りました。

親から与えられたものが正解であり、親の意に反するものを選ぶとそれはすべて不正解です。

不正解のものを選ぶと「わがままだ」「変な子だ」「どうしてだ?」と責められます。自分の感じたままを日記に書いても、訂正しなければなりません。やがて本当のことを言ってはいけない、という信念が芽生えてきます。

本当の気持ちを話すことできない悲しみ、怒りは自分の外の出すことを禁止されています。それは親の意に反するからです。この悲しみや怒りを自分に向けて、自分を責めるようになります。

自分に向けられた感情は、いつ暴れ出すかわかりません。まるで自分の心の中に爆弾が仕掛けられているような緊張感と諦めのなか、差し出された人生のシナリオをそのまま演じることで生き抜く術を覚えていきました。

これほどまでに苦しい環境にもかかわらず、親はそれを「最高の愛」と呼び周囲に自慢をします。「どこに出しても恥ずかしくない最高の娘」だと。

その自慢を聞いて育った私は何の自由もなく、ただただ、サーカスの動物ショーのように可愛らしい仕草や受けのいい態度を取ることで褒美をもらい、愛とはこういうものなのだ、と間違った愛の解釈を学びながら、大人への階段を上っていきます。

大人になったアダルトチャイルド

自立と見えない鎖

自分で選ぶことを経験し、失敗や学びを繰り返した子どもは成長とともに、人との交流の中で、挑戦すること、成功すること、失敗すること、間違うことを通して豊かな人格を形成していきます。

豊かな人格とは、自分と他者の違いを理解して、何事においても寛容でありつつ、自分の尊厳も守るので、断る時にはきちんとそれを伝えます。

お人好しとは違い、出来ることと出来ない事、やりたいこと、やりたくないことを自分の意志で決定することが出来ます。他者と自分を比べることがないので、自分に無いものがあってもへこたれず、無意味に他者を攻撃することもありません。

欲しがることや羨ましがることもないので、人から何かをして欲しい、という欲求があまりありません。

他人ありきでの自分ではないので、これを自立と言います。

一方で選択の余地がなく、失敗することも反省することも知らずに自信のないまま育った場合はどうでしょうか?

自立の経験がないまま大人にならざるを得なかったアダルトチャイルドは人生における司令塔のような存在が必要です。それは苦々しいほどの親からの支配の経験を再演するような人間関係であっても、無いよりはマシであり、無意識のうちのコントロールされたがることに流されていきます。

あれほど憧れた自由も、自信がないので、手を出すことが出来ません。誰かに気に入られて生きる、誰かの評価を受けて生きる方が、楽なのです。そのような関係性に耐性がついているので、違和感もなく受け入れてしまいます。

まるで見えない鎖に繋がれたように、自分から逃げることも出来るのに、実体のない鎖にしがみついて生きることを自らが選んでしまいます。

響き合う人は奪う人

見えない鎖にしがみついたアダルトチャイルドに近づく人たちがいます。

自分のことを理解してくれる、とても親切で優しくて、安全な人間関係だと思える、そんな人たちです。

自信のないアダルトチャイルドにとってはとても魅力的な人間関係に映ります。

「運命」を感じ、響き合う人たちと信じて、献身的に自分の時間、エネルギー、差し出せるものを何でも差し出します。

結果、いっぱい褒めて貰える、自分を認めてもらえる、自分の居場所だと思える最高の人間関係を手に入れた自分は幸せだとアダルトチャイルドは錯覚します。

しかし、ある時、夢から覚めるのです。

それはアダルトチャイルドから、奪うものがなくなったり、存在そのものが必要がなくなったり、またはアダルトチャイルドが疲れ果て、差し出すことに燃え尽きたとき、かつてすべてを委ねることのできた響き合う人が自分の元を去るのです。

響き合う人は、自分から奪うものが無くなると、何事もなかったかのように居なくなります。

期待しない勇気

わたくしは見えない鎖を手放すことのできない間、何度もこのような人間関係を繰り返してきました。

なぜ繰り返してしまうのか?

支配されることに慣れ、奪われることに慣れると、感覚が麻痺して、自分から差し出してしまうことも頻繁にありました。

周囲から貰える「良い人だね」「優しい人だね」「ありがとう、助かるよ」という言葉は、サーカスの動物たちがショーのあとに貰うご褒美のようなものでした。

ご褒美欲しさに、やりたくもないことをやり、使いたくない時間を使い、出したくないお金も出す。ご褒美欲しさに自分の感覚が麻痺していきます。

何よりもご褒美をもらえないことが怖い。

それは自分の存在が無くてもいいという宣告です。

どんな相手にでも、必死にしがみつき、献身的になっては、評価や感謝を期待します。そしてその関係性が破綻すると非常に強い怒りのエネルギーを抱えてます。

この繰り返しの中で、やがて力尽き、生産性のない人間関係に燃え尽きました。

ここでやっと、相手や周囲に期待しない勇気を持つことでアダルトチャイルドからの回復への兆しを手に入れることとなりました。

必死でしがみついていた、実体のない見えない鎖を自分で外す最初の作業は、周囲に期待しない勇気を持つことでした。

親の介護で試されるアダルチャイルド

介護の正解って?

子ども時代にあれほど大きく感じた親の背中が、だんだんと小さくなり、影響力もなくなり、そして体に不具合も生じると、日常生活においてのサポートが必要となります。

「育ててくれた親だから」と、ごく自然に子どもとしての親のお世話をなさることが出来るケースもあれば、したくでも出来ない、やりたくない、いろいろなケースが存在します。

介護における正解は一つではなく、ひとりひとりの人生において、一番の方法が正解なのだと思います。他者が評価するものでもないし、ましてや非難や否定するものではありません。

罪悪感を持たなくてもいい一つの考え方

私自身が介護問題に直面した際に、どうしても向き合うことが難しく、既に経験をされた方から、次のようなお話を伺いました。

人は二度死ぬの。一度目は肉体の死。二度目はその人のことを思い出す人がこの世に誰も居なくなった時に記憶の死を迎える。

これが本当の死。

だから、いつか、お母さんのこと、大変な人だったけど、楽しいこともあったな、一緒にここも行ったしこんなものを食べたな、そんなことを思い出せるように、今は人に任せて離れなさい。

それは放棄ではない、お母さんが亡くなったあとにちゃんと楽しいことを思い出せるように、今は何もしなくていいの。

私は自分が親の介護を手放すことに罪悪感を持っていました。

小さな頃から「どこに出しても恥ずかしくない娘」「最高の作品」の私が、親を見捨てていいのかという気持ちと、見えない鎖から解き放たれた自分で混乱してしまい、答を見つけることが難しかったのです。

しかし必要なタイミングで必要なアドバイスと出会うことで、年老いた親を施設に預け、自分を保つことが出来ました。

あのまま、どんどん訳のわからなくなっていく親を自分が抱え込んでいたとしたら、今の自分は居ないでしょう。

時々母の姿を見に行ったり、お洋服を差し入れる程度のほど良い距離感の中で、母は旅立ちました。

両親の居なくなった世界の中で

自由

母が居なくなったことで、本当の意味で「解放」されました。両親はこの世にいません。

もう私を縛る鎖はありません。

私は自由です。

生前の母が厳しく取り締まっていた「家庭内の困りごとは外の人間に話してはならない」という掟も破ります。

その第一歩として、雑誌 季刊誌Be!150号のインタビューも受け、どなたにも私の生い立ちや介護の葛藤を知って頂く機会も頂きました。

親を許す

私の心のブラックボックスには相変わらず、幼少期に記憶された経験や思い出が入っています。

これを取り除くことはできません。上書きも出来ません。

しかし今の私は、心のブラックボックスの中身を上手に扱うことも出来れば、蓋をしてしまっておくことも出来ます。

それが出来るようになったのは親を許したからです。

自由を与えられず、親の作品として、「良い子」として生きぬかなければ価値の無かった子ども時代、自分の尊厳を親によって奪われた、あの時の怒りや悲しみを私は過去のものとして手放しました。

今の私には何も影響しません。

時々反応することはあっても、それは重大なことにはなりません。

ゆるぎない自分を取り戻したところで、母の人生を思えるゆとりが出来てきます。

手放したからこそ、その余白には新しい考え方を入れることができるのです。

母は私の苦しみを知らない

そのかわり、私も母の苦しみを知らない。

あの人もまた大変な時代を生き抜いてきた一人の人なのだ。

許しの作業を通して、母の存在を否定することなく、私は両親の被害者であることを止めることが出来ました。

しがみつき、ずっと抱えていた見えない鎖の最後の一つは「被害者からの脱却」でした。

私を縛るものは今、何もありません。

アダルトチャイルドとしての半生は常に緊張と恐怖と悲しみと怒りに溢れていました。

これからは、今までの自分の経験を伝えながら、あきらめていたこと、やり残していることを一つずつ積み重ねて、幸せのチェーンを繋ぎ合わせていくことが私の回復作業となるでしょう。

過去の自分に起きた出来事を理解し、向き合うことで、アダルトチャイルドから回復することが出来ます。

回復とは、誰にも左右されず、自分で選び、その選択に責任を取れることでもあります。

自由と責任は両方が存在することで成立します。

回復を続けながら、私はいつも、自分にこう言い聞かせています。

今まで、苦しい環境を生き抜いてきた。だから、大丈夫。

私はすごい力を持っている。だから、大丈夫。

私の体験がアスク発行季刊Be!150号に掲載されました。

詳細はこちらからご覧ください。

ASK発行季刊Be!150号の新シリーズ 「AC(アダルトチルドレン)にとっての親の看取り」において、私の体験が掲載されました。 三途の川の向こう岸にインナーチャイルドを投げた その経緯とその後に起きた心境は、水澤都加佐先生との出会いがなければ、得られることのない気づきでした。水澤先生から頂いたお言葉の全文をここにご紹介いたします。

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