機能不全家族からの家族の再統合

原家族が誰もいなくなったあとで

家柄、世間体、見栄、嫉妬、様々な問題を抱えて、生きにくさを抱えた私の原家族は、父も母も兄も旅立ち、この世には、私一人になりました。
機能不全家族とは、一体何が機能していなかったのだろうか?
過去を振り返りながら、その答えに辿り着く経過を考えてまいります。

機能不全家族の中で抱えた生きづらさとは

機能不全家族、共依存症、アダルトチルドレン、インナーチャイルド、といった言葉や知識を持っていなかった頃の私は、見捨てられることを恐れ、気に入られるためなら、どんな理不尽な扱いでも受け入れる、時には、自らが、自分を安売りするように、周囲の人と接してきました。
そうやって人と接していないと、私は生きていけなかったのです。

そこには、原家族の中で培われた、歪んだ価値観や考え方がありました。
今はもう、両親も兄も旅立ち、この世にいません。
直接に私を非難することもなければ、抑圧をしてくることもありません。
私は今、安心で安全な場所から、自分が育った環境を振り返り、家族への思いを丁寧に思い出しています。

家族それぞれに課題がある

父には父の、母には母の、兄には兄の、本人にしかわからない葛藤があり、苦しみがあったことだと思います。
家族のそれぞれが、未消化の思いを、家族の中で人生の荷物を押し付け合い、そして、その荷物がごちゃごちゃとなって、背負わなくてもいいものまで引き受けてしまったり、本来は自分が背負う荷物を誰かが手放さなかったり、機能不全の家族の中で、責任転嫁と愛情がごちゃ混ぜとなっていたように思います。
「親の教育方針だ」とか「躾だ」と言われてしまえば、子どもはそれに従うほかありません。
なので、何が正しいのか、何が間違っているのか、わからないままに混乱した環境の中で、いかに生き抜いていくか?それぞれが身に着けた生き方があります。

機能不全家族のサバイバーとして生き抜く知恵

原家族の中で、私が背負わなければならなかった荷物は、「親の期待通りの良い子でいなければならない」「親、兄の選んだものが正しい」などの自由や選択のない、人形のような娘時代でした。
そしてその人形のような状態こそが「幸せだ」と教え込まれてきました。

喜怒哀楽を感じる気持ち、意志、などの心の内面を「魂」と呼ぶのであれば、私は抜け殻のような透明人間でした。
自分が存在していても許されるものなのか?常に不安がつきまとい、確認する必要がありました。
感謝、賞賛、評価を頂けると、自分の空洞が埋まっていくようで、気持ちが上向きになります。言い換えれば「私は存在してもいい」というお墨付きをもらえたような感覚になるのです。
逆に感謝、賞賛、評価を頂けないと、「自分は存在する価値がない」と強烈に思い込みます。ここに存在すること自体が恥だと、感じて、自分に向けて、そして周囲に向けて「怒り」が生じます。
そんなことを繰り返して自分を見失っていきます。

やがて、どんな理不尽な条件であれ、自分を認めてくれる人を望むようになります。
いわば人間関係の依存症です。
私が存在していてもいい、と思わせてくれる人には驚異的にのめり込んでいきます。
それは「生きるため」に必要なことであり、歪んだ心が学習した信念でもありました。

心の回復へ

自分をこじらせながらたくさん遠回りもして、でも、諦めないで、自分の回復のための学びがあり、今の私があります。
機能不全家族、アダルトチャイルド、インナーチャイルド、正しく、わかりやすく教えて下さる先生方のとの出会いがあり、自らの苦しさの原因や、回復のを知り、自分の課題に取り組んでいる過程の中で生きています。

父も母も兄もそれぞれの人生のなかで、家族の中に生じた問題によって、全員が苦しい役回りを演じなければなりませんでした。
その役を演じきり、機能不全家族という舞台の幕が閉じれば、今はもう、ただの家族です。
誰も傷つけないし傷つくこともない、家族なのです。

家族の中で機能していなかったものは何か?

機能不全家族とは、一体何が機能をしていなかったのだろうか?
今、原家族の中で独りになって、やっと見えてきた答えがあります。
機能不全家族が機能していなかったものは「愛」なのです。
愛とは存在です
ただ、そこに居る、在る、ということ。
それだけで、良い、とされること。

成績がよければ、親の言うことを聞けば、心配をかけなければ、等の条件は一切必要ありません。
それを自分にも他者にも求めない。
ただ在る。それが愛。

思えば、両親と兄がいたからこそ、良くも悪くも、自分の人生で味わった出来事があるのです。
楽しいこともあったな、とぼんやりと穏やかな家族の時間を思い出しています。

機能不全家族からの再統合の作業は、これからも続きます。
これからの後半の人生を、穏やかに過ごすための象徴になるようなものを残したい、そう思い、私の家族を作品にして頂きました。

晩年の両親や兄との集合写真は1枚も撮影していません。
手元にあるのは、両親が並んで写っている1枚の写真と、兄の遺影をスマホで撮影したもの、そして。私の自撮りの画像。
これらのお渡しして、素晴らしい作品にして頂きました。
育った庭では、大きなハナミズキの木がありましたので、その花も一緒に描いて頂きました。
悩んだとき、辛いとき、この絵を眺めて、力をもらいます。
そして、まだまだ先だけど、いつかこんな感じで、また全員集合するのだろう。
それまでは、両親と兄に見守られながら、家族の分まで楽しく過ごしてまいります。

機能不全家族が与えてくれたもの

機能不全家族で育ったから、その苦しさがわかります。
同じように苦しむ人の気持ちがわかるなんて、おこがましいことは申しません。
しかし、自分の経験した苦しみから、目の前で、同じ環境で苦しみ悩み方たちの心の痛みを想像することが出来ます。
その痛みをイメージできることが「共感」なのです。

この共感の力は、両親と兄が私に与えてくれたギフトです。

これからも家族や愛する人の間で辛い思いをなさる方たちに寄り添えるよう、私自身も心を磨いてまいります。


カウンセリングをご希望の方は以下のフォームをご利用ください。

🍃家族のデッサンは体験型プラットホームainiのホストである、カノンはじめさんによるものです。

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