見捨てられ不安を終わらせると決めた夜
今日は、愛猫ラムネの命日です。
7年前のスーパームーンの夜、ラムネは突然、空へ還りました。
その8か月前には、18歳のマーブルを見送ったばかりでした。
深い悲しみの中にいる私にとって、ラムネの突然の旅立ちは、言葉にならない喪失でした。
前日までご飯を食べ、ご機嫌に過ごしていたあの子が、急に動けなくなりました。もう時間は少ないと悟り、私はただそばにいて撫でることしかできませんでした。
ひんやりとした肉球に触れたとき、心の奥から力が抜け、指先から血の気が引いていくような感覚がありました。
その感覚を、私は知っていました。
幼い頃から何度も経験してきたものです。
誰かが去っていきそうなとき。
叱られ、相手にされなくなったとき。
無視されたとき。
血の気が引き、足元が崩れるようになり、そして必死に安心できる人を探します。
私はずっと、この感覚を繰り返して生きてきたのだと、その夜はっきりとわかりました。
それが「見捨てられ不安」であり、人への依存の根だったのです。
ラムネの命の灯火が消えかけているその瞬間に、私は自分の魂のクセをつかみました。
もう、これを終わらせたい。
ラムネの手を握りながら、私は初めて、自分に向かってそう宣言しました。
私は依存を手放す。そのためには、執着を手放さなければなりません。そして、被害者であることをやめる必要があると気づきました。
執着と被害者意識は、いつも私の中で結びついていました。
誰かにわかってほしい。
誰かに満たしてほしい。
満たされないときには、相手を責めてしまう。
それが、あの血の気が引く感覚を生み続けていたのです。
離れたい人がいるなら、非難するのではなく、「気にならなくなるまで距離をとる」。それでよいのだと思いました。
「あの人がいなくなればいいのに」という思考は、やがて自分が排除される側に立つ思考にもつながるからです。
その夜、私は初めて、自分の内側の構造を理解しました。
気づいたからといって、すぐに楽になったわけではありません。
その後も、母の介護と死、兄の突然の死、そして迎えたばかりの愛猫の突然の死が続きました。
けれど、あの夜に掴んだ気づきは、私の軸になりました。
血の気が引くあの感覚が起きても、「これは昔からの反応なのだ」と少し俯瞰できるようになりました。
感情に飲み込まれるのではなく、感情を観察する。
それが少しずつできるようになったのです。
回復とは、悲しみがなくなることではないと今は思っています。
同じ感覚が起きても、同じ反応を繰り返さなくなること。
それが私にとっての回復です。
私は今も回復の途上にいます。
けれど確かに、あの夜から回復は始まりました。
その歩みの延長線上に、「親子共依存」をテーマにした教材DVDに出演させていただく機会もありました。
もしあの夜、自分の魂のクセに気づいていなければ、あの場に立つことはできなかったと思います。
ラムネは、命をもって私に問いを残してくれました。
私はその問いから逃げませんでした。
7年が経った今、静かにこう言えます。
あの子は、私の人生を変えてくれました。
喪失は、ただ奪うだけのものではありませんでした。
あの血の気が引く感覚を、もう繰り返さないと決めた夜。
それが、私の目覚めの始まりでした。
